Fumiaki Konno in Rikuzentakata

2011年5月22日日曜日

5月下旬の状況

5/19に電話でお話ししたところ、5月末に現在の月山避難所は閉鎖されるものの、そのあと近くの長部小学校の一教室が避難者のために提供されることになり、紺野さんものぞみさんも、5月末にそちらに移る予定とのことです。

また紺野さんのご自宅や実家のあった気仙町には現在、電柱の再建工事が進められており、今月末には電気が復旧する予定とのこと。水道も7月末を目標に復旧作業が進められているそうです。ガスはもともとプロパンだったので、基本的なインフラは復旧しつつあるようです。「家が再建できれば、ふたたびここで暮らすことも可能になるでしょう。ただし、また津波が来たら逃げなくてはなりませんが」とのことでした。

なお津波でパソコンが流されてしまった紺野さんに、新しいパソコンを届ける手配をしましたので、今後ご本人からの発信が掲載できるようになるかもしれません。5月の連休中にはケアインターナショナルからの依頼で通訳の仕事で宮古市にも行かれたそうです。


田中

2011年5月8日日曜日

5月初旬の状況

紺野さんと、現在の状況、今後のことなどについて話しました。いまも紺野さんは月山神社避難所にいらっしゃいますが、この避難所は5月末で閉鎖される予定です。その後は廃校となった小学校が新たな避難所として使われる予定ですが、紺野さんによると行政側が具体的なことをはっきりさせないので、まだ、どうなるかわからないとのこと。

市としては、なるべく早く避難民の自立を促すために、避難所の規模を縮小して、内陸の旅館などを期限を決めて無料にし、そちらに移ってもらいたいという思惑もあるようです。いずれにしても、避難所のあとは仮設住宅に入り、2年くらいはそこで暮らすという形になるだろうとのことでした。

紺野さんご自身は、高校時代の同級生の伝手で車が使用できるようになり、行動範囲が広がったとのこと。自宅は流されたものの、おばさんの住んでいた鉄筋コンクリート製の実家がわりとしっかり残ったので、中の土砂を取り除く作業や、流された父君の家の中から、使えそうな調度品や食器などを運ぶ作業を続け、とりあえず物置として活用できるようにして、半年か一年くらいかけて友だちを泊めるくらいまでの状態には持っていきたいとのことです。

ご実家のあるあたりが、どうなるかは未定だそうですが、法律的に現在の建物を直して、ここに住む権利はあるということです。町の復興についての具体的な議論はまだ始まっていませんが、紺野さんとしては、考古学に関わっていたということもあり、行政によって一方的な取り壊しが進められる前に、自分の家や、近所に残っている蔵の礎石といった文化財などを縄を張るなどして守ることも必要だと考えておられるようです。

近所でも、津波の跡地に現在5軒ほど、半壊した家に住み始めた方々がいるそうです。もちろん、まだ電気も水道もありませんが、夜になると戻ってきて、そこで寝ているとのことです。町そのものの景観は、大きめの建物の取り壊しが少しは進んでいるものの、全体としては4月上旬にわれわれが訪れたときと、ほとんど変わっていないということです。

今後ですが、車が手に入り、行動範囲が広がったこともあり、インターネットへの接続なども共用パソコンのある地域では可能になりました。ただし、小学校などの避難所にある共用パソコンはたいてい小学生に独占されていて、なかなか使えないとのことなので、みなさんからご寄付いただいた資金を利用して、紺野さんが自ら今回の津波や状況について発信できるようにパソコンを購入する予定です。ご自身のパソコン(東芝ダイナブック)は流されてしまったため、ご本人の希望を入れて新しいパソコンを近々購入して紺野さんに送ることを考えています。

また、具体的なことはこれからつめていくつもりですが、津波体験について英語による外国人向けの講演や、陸前高田市の復興に向けてできることがないかなど、いくつかの案を検討中です。その前に、紺野さんご自身の住まいをはじめたとした生活基盤がもう少し安定し、現地から情報を発信する環境が整うことが必要と思われますが、具体的なことが決まりましたら、随時、本ブログにてお知らせしてまいります。


田中

2011年4月22日金曜日

第2回支援物資


紺野さんと鈴木さんと連絡を取りながら、月山神社避難所の方々に必要なもの用意しました。

防塵ゴーグル
防塵マスク
ソーイングセット
老眼鏡
耳かき
固形石けん
ガムテープ
セロハンテープ
ボールペン
メモ用紙
ヘアブラシ
ヘアゴム
爪切り
文房具用のはさみ
インクタイプの修正ペン
プラスチック製のカップ
指ぬき(裁縫用)
ペンライト
小型の目覚まし時計
コロコロ(普通のタイプとロングタイプ、掃除用)

ヤマト運輸で今日の夕刻避難所に向けて送りました。

河江

2011年4月21日木曜日

紺野さんの震災当日の話し

紺野さんの被災当日の体験を、紺野さん自身が避難中に撮影した写真をまじえつつ、直接うかがった話をもとに再現してみます。

3月11日午後2時47分頃、紺野さんは川のそばのおじさんの家にいました。地震の衝撃はかなり大きく、しかも長くつづきました。本来なら、すぐに流れるはずの防災無線も、地震とほぼ同時に停電したために機能しませんでした。

これほど大きな揺れなら津波が来る。そう思った紺野さんは、おじさんを車椅子に乗せて1キロほど内陸の避難所へと運びました。そこは神社(諏訪神社)のある小さな山の北側で、かつて公民館として使われていた建物でした。紺野さんの自宅は、この山の東側の参道のわきにあり、以前から津波のときにはここへ逃げることにしていました。

そのあと、紺野さんは町へ戻り、別のおじさんの様子を見に行きます。はたして、おじさんは高台の施設にいるとわかりました。そこでこんどは先ほどの神社のある山の麓の自宅へ。6メートルの津波が来ると聞いたので、とりあえず財布や水のボトルなど最低限のものだけを持ちました。パソコンにちらりと目をやったものの、6メートルなら、さすがにここまではこないだろうと思い、持ち出すのはやめたといいます。

紺野さんの自宅は広田湾の河口から1・5キロほど遡った場所に位置し、川の堤防からも200メートル近く離れていました。津波が押し寄せても、まさかここまでは来ないと思われていた場所です。そのため近所でもあえて避難せずに家に留まっていて、津波に呑まれた人も少なくなかったといいます。

自分の車を山裾へ移動したあと、紺野さんは山の南側のなだらかな坂道を登ります。津波が来るにはまだ多少時間があると思い、いったん下って様子を見ていたところ、海が堤防を越えて溢れてきているのが目に入りました。

その前を毛布を背負ったおばさんがのろのろとこちらに歩いてくるのが見えました。すぐにそのおばさんにかけよって毛布をあずかると、おばさんを急かして走らせ、神社のある山の参道の階段を登ります。津波はすぐ背後に迫っていて、すでに山の上に避難していた人たちから「来たぞ、来たぞ」と声が上がっていました。

階段を登り始めてまもなく水が山裾に押し寄せ、ここなら大丈夫と思って駐車した自分の車を呑み込みました。水はさらに階段を飲み込んで上がってきます。神社のある頂上から眼下を見ると、瓦屋根が連なっていた住宅街はすっかり水没し、逆巻く海のようになっていました。木造の家々が引く波にのってつぎつぎと流されていきます。そんな家の屋根に乗っかったまま沖へと流されていく人もいました。その人に、上から「がんばれよー」とみなで声をかけました。


夕方になると徐々に水が引いていきましたが。そこにあったはずの建物が見あたりません。自宅の前後にあった2つの蔵も長屋もきれいになくなっていました。参道の階段の下の方は水に沈み、手すりがぐにゃりと曲がっていました。右手の中学校の方から、連続して爆発音が起こり、いつのまにか火の手が上がっていました。あとでわかったことですが、学校に駐車していた車のガソリンに引火して、車が次々と炎上し始めていたのでした。


(c) Fumiaki Konno

夜明かしに備えて、夕方、避難していた数人の若者といっしょに水を汲みに山の裏手の泉まで下りました。斜面の畑がどろどろになっていました。その下の家で男の人が「助けに行こう」といっているのが聞こえました。なにごとかと近づくと、その家の中に足の不自由なおばあさんとお嫁さんがいるといいます。紺野さんは屋根の上から中に入り、他の人たちといっしょに、中からうつぶせになった二人の女性を引っ張り出しました。おばあさんをかばって、お嫁さんもいっしょに死んだのだろうという話でした。

やがて夜になりましたが、中学校のほうから聞こえる爆発音はなおもつづいていました。炎はいつのまにか体育館に燃えうつり、その明かりがぬかるみに沈んだ夜の廃墟一面にぎらぎらと反射していました。見上げると、おそろしいほどきれいな星空で、しばらくすると雪がぱらぱらと降ってきました。

(c) Fumiaki Konno

暖をとるために、間伐材を集めたり、古い賽銭箱をたたきわって、それらを一晩中燃やしました。神社に避難していたのは80名ほど。お年寄りもいれば、赤ん坊をつれたお母さんもいました。みんなで火を囲んで、まんじりともしない一夜を過ごした。下の方では炎上する体育館の炎が、どろどろになった町を夜中じゅう黄色く染め上げていました。

(c) Fumiaki Konno

やがて夜が明けました。一晩中燃え続けた体育館の火もおさまり、眼下には、これまで見たこともなかった風景が広がっていました。朝8時頃、避難していた人たちみんなでいっせいに山の裏手を通って山伝いに移動して、それぞれに避難所へとたどりついたのでした。

(c) Fumiaki Konno
 

田中

2011年4月18日月曜日

被災地からのツイッター

紺野さんからなんとツイッターで連絡が入りました。

昨日、紺野さんやのぞみさんと話している途中で電話が切れました。今朝、@HELPTakataというアドレスからツイートが届きました。

「@yukinegy 紺野のいる避難所は電波状況が悪く電話が通じにくいです。昨日車を手に入れたので活動範囲が少し広がるでしょう。今日も自宅の整理をしているはずです。」

これを受けて、急いで返信しました。

「ご連絡有り難うございます。最後の文章、実に彼らしく思わず笑ってしまいました。RT @HELPTakata: @yukinegy 紺野のいる避難所は電波状況が悪く電話が通じにくいです。昨日車を手に入れたので活動範囲が少し広がるでしょう。今日も自宅の整理をしているはずです」

すると、すぐに返信が返ってきました。

「@yukinegy 河江さん、紺野です。高校時代の同級生、中口節郎君、の世話で、車が支給されました。徒歩、自転車移動から、突然、鳥になったようです。これから、移動自由になり、様々な作業がはかどり、また、視界も一段と広がるでしょう。(続く)

「@yukinegy  次のステップは、インターネットが自由にできるようになることです。同級生の助けで色々と教わって学んで行きたく思います。一歩一歩ですね。その後の、携帯に関するご連絡がありましたらよろしく願います」

ツイッターやフェイスブックの「ソーシャル・メディア」とも呼べるものの力は、前回のエジプト革命の際に強く感じましたが、またここでもその「繋げる」力に興奮しました。

河江


2011年4月15日金曜日

大震災直後の津波映像ー紺野文彰撮影


第1回支援物資運搬

4月12日
8時:東京出発

福島県の吾妻SAそして岩手県の長者原SAでこまめにガソリンを給油し、陸前高田へ向かいました。気仙沼に抜ける3つ続くトンネル(松川トンネル、安波ト ンネル、鹿折トンネル)を抜けるまでは震災を忘れるような日常です。ただ、一関のコンビニではヨーグルト、牛乳、あと特にお酒がありませんでした。地震のため瓶は取らないそうです。

16時:陸前高田長部小学校対策本部/避難所に到着

紺野文彰さん、鈴木のぞみさんとお会いしました。荷物を被災した紺野さんの実家に一端移し、車で市内を(気仙中学校、気仙小学校、を回りました。実家はコンクリート製だっただめに外観だけが残っています)。周りの建物はほとんど全て津波によって流されています。




19時:大船渡市、スーパーマイヤ

車で20分程行った隣の大船渡市へ行き、マミヤスーパーで買い物をしました。ここは品物が優先的に回され、値段も普通より少し安くなっています。食料関係はほぼなんでも揃っていました。

20時:月山神社に到着。責任者の方と話をし、神社の一角にテントを張ることを許可していただきました。今回は食料や水などは全て持って行きましたが、この避難所では食料事情はよいとのことでした(他の避難所ではいまだ2食のところもあるようです。ただ陸前高田本部にもかなりの食料があるように思えました。運搬方法が限られているのかもしれません)


3月13日
4時半:
岩手県沿岸の震度4の地震で目が覚めました。朝食後、物資を整理し、避難所の方々に直接配る。今回、品数が限られていたため、紺野さんとのぞみさんに配り方はお任せしました。必要なものを一人一つ取り、それを何巡かすることで、品物を配布されていました。月山では、皆がほとんどお知り合いのため、こういった方法でも問題ありませんでした。女性用の長靴や健康タオル、爪切りなどが足りなく、裁縫セットなどが欲しいと何名かの女性から言われました。お酒は一部紺野さんにお渡ししましたが、段ボールにはいったものは遠慮されました(本部では受け取っていただきました)。各避難所でポリシーや個別の問題があるようです。


午前:
対策本部に行く前に、紺野さんとのぞみさんが飼っていた猫の餌やりに行きました。ちょうど私達が来る前の日に見つかったそうです。あの大震災の中、どのように生き残っていたのか分かりませんが、3匹中2匹が見つかりました(「ひな」と「とら」)



偕成社から寄付していただいた児童書を長部小学校に貰っていただきました。ここは主に子供がいる家庭が避難しています。教室に5〜7家族ほどが一緒に滞在しているそうです。ある教室でお母さんから話しを聞きました。「ここは物資は豊富ですよ。言い出したらきりがありませんから。でも、この震災で人生が狂ってしまった人達がたくさんいます」と言われていました。子ども達はケンカもせず仲良くなっているそうです。「ほんとうにみんな仲良くて、それはほんとうに自慢してやりたい」と言われていました。


陸前高田対策本部となっている市立第一に行きました。ここでは仮設住宅もできていました。紺野さんが運転免許書の再発行を行いました。身分証明書がなくてもできたそうです。


午後:
2005年にエジプトのバドル大使も行かれた箱根山の展望台にて、陸前高田市から大船渡市を全貌しました。その後、碁石浜、碁石海岸、穴通磯を見て回りましたが、この辺りは問題がないようでした。のぞみさんはやはり隣町の普通の生活がショックだと語られていました。


16時過ぎの遅い昼食はサンリオというスーパーで行いました。ここでも値段は抑えられています。

2003年にレーナー先生、シュタデルマン先生、ホーリーグ先生が泊まられたれたキャピタルホテル、講演された会場、その他、市役所、陸前高田市民体育館、市立図書館などを見て回りました。避難所となっていた体育館では300名以上の方々が亡くなられました。市立図書館では稀少図書は分厚いコンクリートの壁に守られていたため海水には浸かりましたが無事だったようです。



20時過ぎに月山神社に戻り、紺野さん、のぞみさんと最後の食事をしました。

14日:
紺野さんのメッセージを紺野さんのご自宅前で撮影し、別れを惜しみつつ、東京に向けて戻りました(下記のメッセ-ジはそのときのものです)。

河江