Fumiaki Konno in Rikuzentakata

2011年7月6日水曜日

陸前高田再訪

6月半ば、陸前高田を再訪する。紺野さんは、神社の避難所が閉鎖されたため、学校の教室に設けられた避難所へと移っていた。到着したのは夕方。避難所の夕食は5時ということで、もう間に合わない。そこでこの夜は、避難所へは帰らず、被災地に残っている紺野さんの伯母さんが所有する家で過ごすことにする。

周囲の木造家屋の大半があとかたもなく流されたのに対して、鉄筋コンクリート製2階建ての伯母さんの家は壁や天井などの構造部が残り、外形をとどめている。部屋は泥で埋まり、ガラスはすべて割れ、ベランダの手すりや階段は崩壊し、二階の屋根の一部は崩落しているが、紺野さんは泥をとりのぞき、散逸した家財道具を集めて、泊まることは無理でも、荷物を置いたり、しばらく過ごしたりできる場所にしようとしていた。

前回来たときには崩落した屋根と壁のせいで、二階の居間はがれきの山になっていたが、今回はがれきがとりのぞかれて、フローリングの床がむきだしになり、広々としたデッキのようになっていた。近辺の片付けにあたっていた重機の運転手にたのんで、がれきを取り除いてもらったのだという。そこに車に積んであったキャンプ用のチェアやらテーブルやらを並べると、ちょっと優雅な感じになった。




しかし、周囲を見わたせば、月の仄明かりに照らされた廃墟が、夜の戦場さながらどこまでも広がっている。耳に届くのはカエルの鳴き声だけ。ときおりなまぐさい風が吹く。遠くの山間に目をやると、闇の中に二つ三つ明かりが見える。壊れた自宅に帰ってきて住み始めている人たちがいるという。そんなひっそりとした廃墟のただなかで、スーパーで買ってきた弁当やらビールやらを開けて、遅い晩餐をはじめる。

「それにしても避難所の夕食が5時だなんて、まるで病院みたいですね」

「そうなんです。そして朝食は6時。しかも、その時間にいなかったら、食べられない。あと、門限は8時で、消灯は9時です。門限過ぎたら、中に入れてもらえない・・・」

「えー、軍隊みたいじゃないですか」

「そうなんですよ、息がつまるんです。神社のときはまだ外に休めるところがあったからよかったんです。でも、学校だとそうはいかない。お酒も飲めない。でも、9時に床に入ったって、すぐになんか寝られません」

どうして夕食が5時とか、就寝が9時とか、そんな時刻になってしまったのか。紺野さんによると、とくに行政から指導があったわけではなく、被災者たちの力関係で、年長者がこうだと決めてしまうのだという。

「避難所には若い人たちだっていますよね。9時就寝で6時朝食では子どもか老人の生活じゃないですか」

「でも、若い人たちはなにもいわないんですよ。年長者のボスみたいな人が、こうするというと、それでもう決まってしまう。若い人も黙ってしまう。本当はいやなんだけど、でも、なにもいわない」

「どうしてですか」

「それが、ここの人間関係なんです。権力を持ったボスがこうしよう、というと、それでもう決まってしまう。話し合うという空気がないんです」

「もし、そこでなにかいったら、どうなるんですか」

「村八分にされるんです」

「・・・」

まるで宮本常一の世界だが、それは避難所のことだけではなく、共同体の意志決定もまた同じように行われてきたと紺野さんはいう。

「たとえば、以前から陸前高田ではダムをつくるという大きな土木計画が持ち上がっています。一応住民説明会を開くのですが、説明会といっても対話をする場ではなくて、一応『やった』という実績のためだけに開かれていて、最初から結論は決まっているんです。告知もひっそりとするから、ほとんど人が集まらない。そこでなるべく難しい言葉を使って説明し、質問時間はほとんどもうけず、『そういうことですから、ご協力お願いします』といってお開きにする。これで住民の理解が得られた、ということになってしまう。そうやって有力者の利権がらみで、いろんな事業が進められてきた。でも、そういうやり方に表立ってみな反対しない。反対すると村八分になるから・・・」


海外生活の長い紺野さんとしては、こうした保守的なムラ社会の論理がきついのもむりはないだろう。ビールの酔いや、避難所生活のストレスもあってか、紺野さんはしゃべりつづけた。

「前の避難所にいたとき、スリランカの人たちがボランティアでカレーの炊き出しに来てくれたことがありました。夕食の時間が5時なので、それに合わせてくるという予定でした。ところが、5時になっても現れない。すると、もうみんなで悪口ですよ。『まだ来ないのか。どういうつもりだ』と。結局来たのが6時半でした。一応ニコニコ出迎えるふりはしていましたが、陰では『こんな時間まで待たされて、こんなもん食わせられるとは、迷惑にもほどがある』とかひどい言い様でした。見かねて、私が『時間にセコセコしない、おおらかなお国柄ですからね。エジプトもそうですよ』というと、『あー。オレは絶対エジプトなんか行きたくねー』といわれました・・・」

深夜、月は厚い雲に隠れ、風がしだいにひんやりしてくる。ごくたまに、車が家の前の道路を通り過ぎるが、すぐまた静かになり、カエルの声が闇を満たす。

「このあたりの復興計画についても危惧しているんです。まだ、具体化はしていませんが」

「それって山を切り崩して、下の住民をみな高台に移住させるというやつですか」

「そうなんです。でも、山を崩して土地をつくるといったってその予算などありませんから、国に出してもらうしかない。そういう予算的な問題もありますが、そのほかにもいろいろ問題があります。それに大きな利権がらみの事業になることは目に見えています。じつは・・・」(といって紺野さんが話してくれたのは、公にするには、まださしさわりのある内容なので省略。)


 

「・・・それともう一つ、陸前高田のこのあたりというのは、歴史的にきわめて重要な場所なんです。流されてしまいましたが、山の麓には400年前の庄屋の屋敷が残っていたし、このあたりにならんでいた蔵だって文化財として重要なものばかりでした。ここには金山もあって、それが伊達藩の重要な財源になっていたし、もっと昔には奈良の大仏をおおっていた金も、この気仙の金だったといわれています。でも、そういうことを地元の人たちはまったく知らないし、行政もまるで関心を払っていない。利権にしか関心がなく、上の人がこうする、といったら、それにだれも反対したり、意見を述べたりできないしくみになっているんです。もし、ここを更地にして、高台に町をつくるなどということになれば、そのときなにがこの町の文化資源・観光資源になるのか。そういうことを抜きにして、復興なんておかしいと思いませんか」

「そうですねえ・・・」

「私は、復興にあたっては、なにか旗印になるものが必要だと思うんです。高台に利権でつくった町なんかじゃなくて、文化や歴史に関するものが。地元民はほとんど関心がなくても、外国のメディアの中には、そういう点に関心を示している人もいるんです。ウォール・ストリート・ジャーナルの記者が、気仙の金山の歴史における重要性を取材しに来て記事にしたこともあるんです。コロンブスがめざした黄金の国ジパングとは、この気仙の金山だったという人すらいるんです。それはまあファンタジーですが、こうした三陸の沿岸地域の国際観光化は、復興を支えるひとつの柱になりうると思う。近くの平泉が世界文化遺産になりそうですが、平泉とここには文化的交流もあった。そうした観点を取り入れた復興計画でないと、復興したはいいものの、一部の利権をもった人たちが潤うだけで、仕事はない、町としての個性もない、ということになりかねない・・・」



 

「そういうことを紺野さんが行政にアピールすればいいじゃないですか」

「いや、私みたいな地元の人間がいってもダメなんです。有名な誰それがいっていたとか、外国のメディアでこういわれているとか、そういう外圧がないと動かない。だから、そうした外部からのプレッシャでまわりから囲い込んでいければと考えているんですけどね・・・」